権利擁護

高齢者や障がいを持つ人々への権利侵害・虐待について


      高齢者・障がいを持つ人に対する日常的な権利侵害
       ? 自分のことを他人に決められてしまう。

         ex. 本人の意思にかかわらず、家族の都合で施設に入れられる。

           結婚をしたいのにこれを制限される。



      ? 閉鎖的な生活を強いられる。コミュニケーションの機会が少ない。

           「世間の目」を避けたい家族の意識、管理的側面重視の施設の方針、

           施設が遠い等物理的環境や条件のため自由に活動できない。



      ? プライバシーの無視・軽視。名誉を蔑ろにされる。

          ex. 施設等の部屋のドアに鍵がつけられていない。

           本人の了承なく援助者が入室する。

           羞恥心を配慮しないトイレ介助・風呂介助、なれなれしい呼称・言葉遣い。



      ? 学習機会がない。働く機会がない。

           本人に合った学習の場や労働の場を開拓し援助することが

           本人の自己実現に貢献することになる。



      ? 自分の金銭を自分の意思で使えない。

         ex. 施設や周囲のものが本人の財産を管理し、本人が自由に使えない。

           又は親族が財産を管理し、親族の都合で費消する。

           周囲もこれを是正しようとしない。

      「主体的に生きること」の根こそぎの阻害

           高齢者・障害者の生活現場では、権利侵害に対し文句を云えない・

           その手段を持たない・その認識すら持ちえないため相談にも昇って

           こないという状況が少なくない。

           「侵害」が最も問題にされるべき「権利」は「主体的に生きる権利」である。


                    →エンパワーメント(権限付与の重要性



      日常的権利侵害状況の放置
          福祉現場の人々が、「日常的権利侵害」を意識しつつ又は無意識に

          「労働の過重」や「制度的限界」を理由に、これを放置してしまっている

          ケースが少なくない。


          日常的な権利侵害、小さな人権侵害が、高齢者・障害者の主体的に

          生きる意思・意欲を萎えさせ気力を奪い、過酷な虐待を生み出す母体

          ともなっている。




   高齢者・障害者に対する偏見・スティグマ

       このような権利侵害の背後には判断能力が低減していく者、障害を有するものに対する

       偏見やスティグマの意識が大きく横たわっている。


  (例)   □ 痴呆の著しい高齢者を「みっともない」 「恥ずかしい 」ものとして扱う。


        □ 知的障害者に対する、「バカは何をするか分からない」といった捉え方・

          性犯罪や放火事件などにおける予断的な捜査。


        □ 精神障害者=危険人物とも云わんばかりの事件報道、犯罪者の経歴に

          精神病院入院歴・精神科通院歴の記載があれば事件との因果関係を問

          わず精神障害者=犯罪者のイメージを持たれる。


        □ 知的障害者・精神障害者の作業所や通所施設を設置する際の「治安上

          の不安」「住環境の悪化」などを理由とする住民反対運動。など






  「虐待」について考える



          虐待(Abuse)とは


      ?  肉体的暴力

      ?  性的暴力

      ?  言葉による暴力

      ?  扶養(当然必要とされる介助)の放棄




          高齢者虐待(シルバー・ハラスメント)


          被虐待者  男 約25%  女 約75%


          被虐待者の主たる介護者 =子又は子の配偶者が約75% 本人配偶者が約20%



 順位  1 介護拒否・放棄(食事を与えない、介護しないなど)

       ・離れなどに外から鍵をかけ食事はその都度質素なものを届ける位だった

       ため、空腹でやせ衰え、落ちた義眼を飴玉と思い込み舐めていた。


       ・世話の放任が見られるケースでは、徘徊や不潔行為が見られることが

       多いせいか痴呆性高齢者が多い。

        (痴呆性高齢者を閉じ込めることで家族の生活を守るという意識)



      2 身体的虐待(暴行・拘束等)

        虐待者は、配偶者・娘・アルコール依存症の息子の順。

        虐待者側の心理状態が暴力行為につながりやすい。



      3 心理的虐待(暴言等)

        夫が自らの意思で動けないことなどを逆手に取り暴言を吐く。



      4 経済的虐待(年金を取り上げる等)




    動機 1.人間関係の不和  2.介護負担による疲れ、精神的不安定



           財産ハラスメント


1. 76歳の女性が夫の死後土地を売却。次男が面倒を見る条件でお金を手に入れ家を新築。同居直後から態度が一変。 口を一切きかない、次男の妻が粗末な食事を運んでくる。風呂は週一回、トイレは「夜歩くとうるさい」と部屋のポータブルトイレに。


2. 92歳の女性。死んだ夫の先妻の次男一家と同居、口もきかず部屋から外に出さない。調理も禁じられ毎夜コンビニにでかけ、弁当で飢えをしのぐ。次男は財産相続をもくろみ、女性の印鑑を使用し養子縁組までした。




           老人は財産と引き換えに介護を期待する。

           子供は相続は当然だが介護はいやだと考える。

           行政は介護を同居家族に押し付ける。

           皆が甘え合う構造がハラスメントの温床になっている。




           社会による虐待

      ・1992 兵庫銀行(当時)が神戸市の痴呆症の女性に違法な保険契約をさせた事件。


      ・1992 大阪市東成区の85歳の女性の生活が荒れて、家主が困って市職員に追い
          出しを依頼。職員は女性を病院に入院させ、本人に相談なく家財を売り払い、
          住居を解約し追い出した。 自治体による棄老といえる。

      ・2005  京都市山科区の男性(当時38歳)が栄養失調で入院していた病院を退院後に
          生活保護を打ち切られ約2カ月後に独り暮らしのアパートで死亡。
          京都地裁は市に慰謝料など220万円の支払いを命じた。




  介護殺人から見えてくる「日本的」な介護の態様



       ・介護殺人被害者の大半は女性である。女性は夫死別後一人取り残されることが多く、

        痴呆等になると独身の息子、娘、息子の妻といった一人の介護者に介護されがち。

        家族による介護殺人にほぼ共通して云えるのはたった一人で介護を担っていた例が

        多いことである。

        配偶者の介護は配偶者だけの義務とか、老親を看るのは長男或いは長男の妻の役割と

        する意識が社会通念としてあるため、たった一人の介護という状況が作られる。



       ・まわりに救いを求めない。身内だけで介護を行おうとする。公的援助や施設入所を、

        「血も涙もない」「親不孝」といって非難する。


      ・「痴呆の年寄りを見られたくない」「身内の恥を世間に知られたくない」とする意識。

       これらは、人間としての価値を健常者だけに置くものである。

       千葉県のある老夫婦が乗用車の中にガソリンを撒いて焼身心中。夫の遺書に「他人の手

       を借りなければならない寝たきりや痴呆にはなりたくない。汚いのは誰でもいやだ。

       遠慮して長生きするのが幸福か不幸か分からない。

       身体の自由が利くうちにみずから命を絶つことに決めた。」とあった。



       高齢者が心身を病んで人の手を借りなければ生きられなくなったらおしまいだと

       考えざるを得なくなるのは、世の中の人間に対する価値観がそうだからである。

       だとしたら、身体障害者や知的障害者、精神障害者は生きていく価値が
       ないのだろうか。



       91年からの5年間で介護のからむ殺人等の事件は31件に及んでいる。




    知的障害者虐待事件


      「聖ヨハネ学園」山梨・富士(知的障害者更生施設) 1996.2発覚

      パーキンソン病により歩行困難な入居者に対し、食事介助の放棄、訓練と称し暴行、

      その後障害者が死亡。

      他、看護部長が3人の女性入居者に性的暴行、さらに看護部長の犯罪の揉み消し工

      作として職員を退職させた。


       「清和園 」(長崎県五島・知的障害者更生施設)

       園長による障害者年金横領 懲役1年実刑判決 ‘97.9.5長崎新聞


      「茨木学園」(大阪府茨木市・知的障害者更生施設)

       理事長が自分の経営する建設会社に、「社会復帰訓練」と称し建物解体やブロック

       工事等を無給で従事させていた。 ‘97.10.4毎日新聞


       「啓光学園」(東京都多摩市・知的障害者更生施設)

        障害者年金の施設への寄付強要  ‘97.4.28毎日新聞


       「若草訓練所」(大阪府池田市・心身障害者通所施設) ‘96.7.表面化

       古参指導員(ほとんど主婦)の暴力的な指導

        襟首とベルトを持って小荷物のように扱う。訓練と称し嚥下困難で食事に時間の
       かかる障害者の口に強引に食べ物を押し込む。

       96.4 新任の所長(橋本和郎氏)が所内の虐待を市に告発

       97.4.橋本氏解雇される



      「白河育成園事件」(福島県西白河郡西郷村) 1997
      「つつじの園事件」(東京都文京区・知的障害者通所施設)1999.12
      「水戸パッケージ(アカス紙器)事件」(茨城県水戸市・福祉工場)1996.1発覚

      「サングループ事件」(滋賀県五個荘町・福祉工場)1996顕在化

       「中村製作所事件 」(埼玉県入間市・福祉工場)1999

       「愛成学園事件」(東京都中野区・入所更生施設)1999

         職員の入所者に対する暴行事件


精神障害者への虐待



        病院・施設における虐待


         宇都宮病院事件(1984、栃木県)
         越川記念病院事件(1989、神奈川県)

         常勤精神保健指定医不在のまま医療保護入院や患者の行動制限を行っていた。

         診療報酬の不正請求もあり。1994年に改善命令。不正請求の刑事告発。

         栗田病院事件(1996、長野県)

         病院長が入院患者の預金を無断で引き出し私的に流用。



         大和川病院事件(1997、大阪府)

         同院から転院した患者の死亡を契機に、医療・看護体制の杜撰さや患者処遇上の

         問題、さらに診療報酬の不正請求が明らかとなった。病院開設許可の取消。院長

         は詐欺罪で逮捕。



        山本病院事件(1997、高知県)

        看護助手らが入院患者に暴行を加え死亡させた。指定医診察のない医療保護入院

         や患者の行動制限上の問題が明らかとなった。


        国立療養所犀潟病院事件(1998、新潟県)

         不適切な身体的拘束により入院患者が死亡。行動制限手続に問題ある事例発覚。


        奄美病院事件(1998、鹿児島県)

         隔離室が満床のため、興奮した入院患者を立木に縛り付けた。



        平松病院事件(1998、北海道)

         隔離室に2名の患者を入室させたが、一方の患者がもう一方を殺害した。しかも

         双方の患者とも任意入院であった。他にも同種の問題が発覚。



        朝倉病院事件(2000、埼玉県)

        指定医診察によらない行動制限、不必要な中心静脈栄養、不正請求などが問題と

        なる。立ち入り調査後、非自発入院患者の転院・指定医配置等の改善命令。




       施設による人権侵害は一般社会が生み出している

       障害児・者、高齢者への厄介者視と差別・排除の仕組み



       障害者施設(精神障害者施設)への反対運動

反対運動の帰結
毎日新聞調査
(‘89~98) 
国立衛生保健研究所調査
(‘78-88) 
計画どおり設置
16(19.3)
7(11.9)
条件付設置
9(10.8) 
7(11.9)
場所変更設置 
30(36.1) 
10(31.3)
計画断念  
12(14.5) 
6(18.8) 
話し合い継続中
16(19.3) 
2 (6.3)
合計  
83(100) 
32(100) 



            反対理由:治安上の不安 住環境の悪化 町のイメージダウン


                   行政から事前の説明がない




                        反対運動の主体と対象

         大都市部における反対運動の特徴として、伝統的なコミュニティが解体されている

       状況の中では、反対者は地域住民の一部で、多くは無関心であること。

       住民の一部が強硬に反対している場合は行政交渉などを通じ、
       長期化する傾向があること。

       障害者への危険意識に加え、施設を設置しようとする団体や行政への不信感がある。






    「障害者」とは?



        「国連」の障害者(disabled person)の定義


             障害者の権利宣言 1975

       先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の不全のために、通常の個人

       又は社会生活に必要なことを確保することが、自分自身では完全にまたは部分的に

       できない人。



         WHO(国際保健機構)の障害者の定義


           国際障害分類(ICIDH)1980
           (Intenational Classification of Impairments, Disabilities and Handicaps)



        Diseases or Disorder   Impairment   Disability   handicap



       疾病または変調  →  機能障害  →  能力障害  →  社会的不利
       (内的状況)      (顕在化)    (客観化)     (社会化)
       intrinstic situation   exteriorized    objectified    socialization



        機能障害心理的、生理的または解剖的な構造又は機能の喪失又は異常

        能力障害 人間として正常な方法や範囲で活動していく能力の制限

        社会的不利 その個人の不利益で、正常な役割を果たすことの制限




                外国での「障害」への取り組み方

                 ノーマライゼイション


 B―ミケルセン
 障害者をノーマルにするのではなく、生活条件をノーマルにしていく環境を提供すること。

 B.ニィリエ
 ノーマルな生活リズム、ノーマルな理解と関係、ノーマルな生活基盤(経済的条件、住宅環境)

 W.ヴォルフェンスベルガー 
 障害者の社会的役割の実現(障害者自身の能力を高めること、社会に対する障害者のイメージを高める働きかけ)

          障害を持つアメリカ人法 Americans with Disabilities Act

 肥満やどもりも、偏見と差別を引き起こす原因となりうるため差別禁止法たるこの法律の保護対象となる。
          スウェーデン ~ 全施設閉鎖(廃止)への取り組み
 インテグレーション(統合)  知的障害児も他の子供と同じ学校に通い、一般社会の中で他の人たちとともに同じ生活をする。
         

         日本における 「障害者 」の法律上・制度上の定義


    身体障害者福祉法 第4条

     この法律において「身体障害者」とは、別表に掲げる身体上の障害がある18歳

     以上のものであって、都道府県知事から身体障害者手帳の交付を受けたものをいう。



    知的障害者福祉法 明確な規定なし    社会通念上、知的障害者と考えられる者


     厚生省1995年調査

      知的機能の障害が発達期(概ね18歳まで)に現れ、日常生活に支障が生じてい

      るため、何らかの特別の援助を必要とする状態にあるもの。



    精神障害者の範囲

    精神医療の対象として ― 痴呆や知的障害といった、日本では高齢者福祉や知的

    障害者福祉の対象となるもの、神経症など、軽いものを含む。

    (これらがICD-10の中で精神疾患として取り扱われているため)



     福祉の対象として ― 精神障害を持ち、「長期にわたり日常生活または社会生活

                   に相当な制限を受ける」生活能力の障害がある人。


       (精神保健福祉法 ― ここにいう精神障害とは、統合失調症、精神作用物質

             による急性中毒またはその依存症、精神病質その他の精神疾患をいう)



 現行成年後見制度の問題点


       「成年後見」制度は権利擁護のための制度として機能しているか?



   1.ドイツなど先進諸国においては、後見費用や後見人の報酬の支出を含め、国家が必

   要に応じて関与している。日本の成年後見制度は、民法の財産法の改正という枠組み

   から踏み出しておらず、公費によるこれらの手当てが講じられていないのは国際的に

   も異例といえる。



   2.人を類型化する旧制度の根幹が維持されている。これはレッテルの貼り替えであり

   「後見」・「保佐」・「補助」の三類型は、新たな能力差別ないし治療モデルの提示にほか

   ならないとはいえないか。

   類型によらず、より個別的な対応による方法の検討はなされたのか。



   3.部分的サポートを利用したいと思っても、「後見」のレッテルが貼られると選択・拒

   否は著しく困難である。



   4.ドイツ「世話法」では身体障害者も「世話」の対象としているが、日本では「判断

   能力の低下」を基準としており重度・軽度を問わず身体障害者を対象としていない根

   拠は何か。



   5.任意後見を別として、判断能力の低下した本人による申し立ては困難なのであるか

   ら、福祉や介護との連携を考慮しておくべきであり、福祉介護等の社会サービスの利

   用について自己決定に代わる「代行決定」に関するルールをあらかじめ定めておく必

   要があった。


   6.制度運用の点で、欧米では福祉関係者特に自治体の社会サービス部署等と裁判所な

   ど司法の組織との間に密接な連携態勢があるが、日本では今後の課題である。


   7.費用・報酬等についての基準がない。資産のない人が制度利用をする際に、費用及

   び利用の効果を予測できる状況でないと利用は広がらない。


   8.裁判所による監督機能がどこまで実効をもって発揮できるか。


   9.福祉の民営化と相俟って「契約の自由」を放置することによる新たな不公平・不平

   等・不公正が現実化してきている。たとえば介護保険が導入されても、?選択できる

   ほど供給量が十分でない。?財源を有する介護保険者により需要がコントロールされ

   る。など、市場として介護サービスの確立は困難であり、疑似市場でしかない。緊急

   性のある要介護者にとっては「契約」のメリットに対し危険性も大きく、契約書が一

   方的な宣告書の意味しか持たないこともありうる。


   10.地域福祉権利擁護事業との関連が不明確。似た事業を法務省・厚生労働省にまたがり

   実施することの意味は? 縦割り行政そのものではないのか?


   11.介護を要する人をサポートするには「成年後見」を介護保険サービスとドッキングす

   ることが必要。「成年後見」には十分な金がない。「地域福祉権利擁護事業」には家裁の

   監督がないなどチェックが弱い。両方をまとめて介護保険給付対象にすべきである。




 「成年後見」を担うに当たって注意すべきであると思うこと。



       デスメーキング*に加担しないこと。
         * Death-making   W.ヴォルフェンスベルガー


       直接的にせよ間接的にせよ、個人やグループの死をもたらしたり、早めたりする

       すべての活動、あるいは活動の形態。

       どの社会にも、障害者という価値を貶められた人々に対して、このデスメーキン

       グの仕組みが普遍的に存在する。

       援助方法の工夫次第で自立可能な人々を、親族・近親者または福祉関係の要望で

       病院や施設に追い込んではいないか。





      高齢者や障害をもつ人に対する「共感的理解」を常に心がけること。







  低所得者の福祉と人権




       1981年 生活保護の適正実施の推進について(123号通知)

       = 生活保護の不正受給を正すという狙い


       1987.1 夫離別 3人の子を養育 39歳女性

       「母さんはまけました」の書置き 衰弱死


       1987.10 荒川区78歳女性 生活保護を辞退させられ「福祉は人を助ける

       のでしょうか。生き抜く瀬も何もなくなりました。」の手紙を残し自殺。



       秋田加藤訴訟

       生活保護費の預貯金 73万円



       1985.2保護費減額処分、預貯金の使途凍結指示

       保護費減額処分、預貯金の使途凍結指示の無効確認の裁判 1993.4勝訴









 その日暮らしの手帳

顧客と打ち合わせを済ませて、炎天下を流れる汗を拭いつつ帰り道を急ぐ。
ふと目に入った民家の庭には数本の向日葵の花が咲き始めていた。
その施設では、職員の休息と、入寮者を家族とともに過ごさせることを目的として、年に数回親族が入寮者を迎えに行くことになっている。
妹と同じ寮に、言葉といえば相手の言葉をただ鸚鵡返しにすることしかできない十五、六歳の小柄な少女がいた。嬉しいときは跳び跳ね、叫びながらパンパンと手を打ち鳴らす。悔しいときは平手で頭を叩き、唸りながら顔に押し付けるように拳を齒む。嬉しいとき、悔しいいとき、とりわけ感情の激したときに時折彼女が自ら発する言葉がひとことだけあった。胸が軋むような言葉だった。
その婦人は少女の母親だった。四十代後半ぐらいだろうか、数年前に離婚、その際に家屋敷は得たものの、別れた夫からの仕送りも滞りがちとなり、家屋敷を売却、娘を施設に入れ、今は働いているという。「施設に入れてね、やっと楽になったんですよ」と、娘の手を取り歩きながら、いかにも気丈そうに明るく話す。道路脇の向日葵の黄色が鮮やかだった。
その婦人が大腸癌で亡くなったのはその数年後の夏だった。告別式に連れてこられたその娘は、花に埋もれた棺の中の母親を眠っていると思ったのか、抱き起こそうとした。周りが止めてもきかない。そして、ただひとつの自分の言葉を叫んだ。「シンダホウガイイ」。
知的障害の娘を治そうと、母親は全国の病院を訪ねただろう。神仏にもすがっただろう。自分と自分の娘に降りかかった理不尽を許せなかっただろう。ふと、あるとき母親は魂の奥底から娘にその言葉を投げかけたのだろう。そのとき、彼岸にある娘のこころと此岸の母親のこころが共鳴した。
あまりに悲しい言葉だからこそ、私はそう確信する。娘は今もその施設で暮らしている。彼女があの言葉を発することはもうないという。 
                              (小山)